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新映画株式会社(しんえいが-)は、かつて存在した日本の映画製作プロダクションである。通称新映画社。 == 略歴・概要 == 1950年(昭和25年)5月、太泉スタヂオ(のちの太泉映画、東映の前身の一社、現在の東映東京撮影所)の撮影所次長兼企画室長であった篠勝三が設立した〔『日本映画発達史 III』、田中純一郎、中公文庫、1980年 ISBN 4122003059, p.359.〕。前年の1949年(昭和24年)10月1日に京都の東横映画(東映の前身の一社、現在の東映京都撮影所)と太泉スタヂオの作品を配給するため、東急資本が東京映画配給(東映の前身の一社)を設立したことを背景に、東横映画の一角を担うべく、設立された〔。製作には東横映画撮影所を使用した〔。 設立第1作は、雪吹周の原作を山本嘉次郎と高柳春雄が脚本に起こし、新東宝の志村敏夫が監督、東宝をレッドパージされ東横映画等に出演していた岸旗江、東横のマキノ光雄の妻・星玲子の姪・星美智子らを起用して製作した『肉体の白書』である〔〔肉体の白書 、日本映画データベース、2009年11月16日閲覧。〕。同作は、同年7月4日に東京映画配給の配給で公開された〔。 1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して東映が形成され、新映画社は独自の道を歩み始める。同年、大映と配給提携を結び、日活多摩川撮影所、その後進である大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)を出て、前年に今村貞雄のラジオ映画で1本を撮った伊賀山正徳を監督に『湯の町情話』、次いで『紅涙草』を製作、前者を同年8月17日、後者を11月23日にそれぞれ公開した。伊賀山は翌年には東映東京撮影所に入社した〔伊賀山正光 、日本映画データベース、2009年11月16日閲覧。〕。 1952年(昭和27年)には、劇団民藝と製作提携を結び、宇野重吉、滝沢修ら同劇団陣の出演を得て、稲垣浩の執筆した脚本を島耕二が監督した『ある夜の出来事』、大映と製作でも提携し、同社の監督である安田公義が監督した『佐渡ガ島悲歌』を製作した。 その後、6年間は製作の記録が残っていない。篠勝三はその間、新東宝、東京映画、協同プロダクション、近代映画協会等の作品にプロデューサーとして関わっていた〔篠勝三 、キネマ旬報、2009年11月16日閲覧。〕。 1958年(昭和33年)、江戸川乱歩の原作を陶山鉄が脚色し、山本弘之が監督した『蜘蛛男』を大映配給で発表〔蜘蛛男 、日本映画データベース、2009年11月16日閲覧。〕して後、新映画社の消息は知れない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新映画 (企業)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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